RBCアナウンサー山野本竜規の「ナカトリモチ日記」

神社の神職は神と人との間を取り持つ「ナカトリモチ」。 神職資格を持つRBCアナウンサー山野本竜規が、仕事の 裏側からプライベートまで日々の出来事を皆さんにお届けします。
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2007年10月23日

命を懸ける覚悟。

命を懸ける覚悟。思い切って物事を決断することを
清水の舞台から飛び降りるつもりで」と
表現することがあります。

京都は大好きな町のひとつなので
その諺の舞台となっている清水寺に
今年の春、久しぶりに行ってきました。

諺の通り、本当に飛び降りてしまっては
その意味も本末転倒になってしまいますが
人間、生きていれば色々な局面で、
こういった表現を使わざるを得ない
出来事に遭遇することがあります。

僕は以前、このブログで「熱すぎる人は、ニガテだ」と書きましたが
同じ「熱い人」でも、
何事も人生を懸けて、自分の命を懸けるほどの覚悟を持って
1日、1日を精一杯生きている人たちは大好きですキラキラ 

普段、生活している中で
そこまで大袈裟な表現を使うほど、
命を懸けるほどの覚悟で臨む出来事ってあるのかな・・・と
疑問に感じる方もいらっしゃるかも知れません。

でも、ハッキリ言いましょう。

沢山あります!!!

僕が普段行っている霊視や個人セッションでは、
ほぼ、何かに迷って相談に来られる方がほとんどです。

借金のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと、離婚のこと、恋愛のこと等・・・。

ありとあらゆる人生の岐路に立たされた人たちが
「どちらを選択したら良いのだろうか・・・」と真剣な表情で尋ねられますが
「A」です「B」です・・・・といった断定的な表現は一切しない、
・・・というより、やってはいけないことなので
あとは本人次第ということになります。

どういうことかと言いますと
決して霊的世界からは
「こうしなさい」「ああしなさい」と何かを断定するような表現や
メッセージが伝えられることは
例外を除いて、ほとんどないからです。

全ては本人の意思を尊重し、その決断や選択が
たとえ間違っていたとしても、
そして苦労する道であったとしても、
本人の魂の成長のみを願っている魂の親たちからすれば
「本人が選択して苦労する過程にこそ、その魂の成長がある」、
もっと言えば「この世で生きる意味がある」と
本当に大きな愛情で見守って下さっているんです。

もし、そういった選択する自由を奪って
具体的に「ああしなさい」「こうしなさい」と伝える
霊能者やユタや占い師がいるとしたら
それは「それぞれの魂の選択の自由を奪う」という
霊的世界からの法則に違反した行為になるので
きっと、どこかでその反則行為が
本人たちに返ってくることでしょう。

自分が蒔いた種は、自分で刈り取る・・・
というシンプルな自然の流れなんですけどね。

逆に言えば、
依存心の強い人や自分主体で生きられない無責任な人の場合
同じように低い波長を持った者同士、魂が引き合うことになるので
そういった「ああしなさい」「こうしなさい」と
いちいち指示を出す霊能者やユタは
相談者にとって、「よく当たる」「夢を実現してくれる」「理解してくれる」、
本当に都合の良い存在になる場合が多い。

そのような依存体質の相談者にとって居心地が良い、
ご都合主義の霊能者やユタの場合、
霊的世界からのメッセージを受け取っていることはなく
最終的に人間の心を堕落させて、
自分自身の力で生きられないような心の不幸に陥れようとする
低級霊に影響されているケースがほとんどです。

または、決して悪意がなかったとしても
霊的世界の道具、霊媒となる人間の
勉強不足、知識不足、心の経験不足から
同じような言動に走り、低級霊に操られるケースもあります。

僕たち霊能者は、そういった意味で
常にリスクを背負いながら、霊的世界の勉強を重ねつつ
心の隙を悪用されないように
心や魂を鍛えておく必要がありますし、
どんな時でも、命を懸けてやらなければいけない覚悟も必要です。

低級霊と言っても、侮るなかれ。

ちゃんとした霊的な力は持っているので
最初こそ「物事を言い当てた」とか
「相談して運が良くなった」などと喜ばせておいて、
あとから一気に、その逆のパターンを体験させて
頼ってきた人が困る姿を喜ぶ、
本当にタチの悪い霊団がいるのも事実です。

逆に、そういった低級霊の集団に左右されないためには
どうしたら良いのか・・・。

答えは本当に簡単です。

何もお祓いをするとか、祝詞やお経をあげるとか、
聖地巡りをする必要もなければ
高いお金を払って、何かを供養する必要もありません。

それは、
「何事も自分主体で生きていく」という責任と覚悟を持つことです。

自分で選択した道ならば、
たとえ間違いであったとしても苦労したとしても、
誰かや世の中の時代背景、社会情勢に責任転嫁することなく
全て「これも自分が選んだ道」と受け止めて
一歩、一歩前進する強さを身につけることです。

これが、人生を懸けて、命を懸けて生きていく・・・ということ。

ちょっと古臭い価値観・・・
と言われても仕方がないかも知れませんが
最近は、自分の人生に覚悟のない人が多いように思えます。

これは、仕事であろうが、恋愛であろうが、何であろうが
全てに共通することです。

仕事をクビになる覚悟で、物事を考え行動し、
たとえ不利な状況になろうとも、好きな仕事ができなくなったとしても、
時には上司や先輩に苦言を呈する覚悟と勇気がありますか?

恋愛で、好きな人にフラれて心が傷付き、
立ち直れない・・・と思えるほどボロボロになる恐れがあったとしても
敢えて、その気持ちを相手に伝える覚悟や勇気がありますか?

・・・こう考えると、
いかに気持ちを込めて、人生を懸けて、命を懸けて
物事に取り組まなければいけない場面が多いか
ちょっとだけ思い返す、良い機会になるかも知れません。

そして、僕自身は、これまでそうやって
自分の気持ちに正直に、覚悟を持って生きてきました。
不利な条件に立たされたとしても、
自分が守るべきものが何なのか
それだけを大切にして生きてきました。

だから、僕が仲良くなる人たちは
心が傷付いた経験を持ちながらも、それをプラスにして
芯はとても逞しく、だけど、それをあまり表に出さずに
優しく柔らかく生きている人たちがほとんどです。

これが果たして、大袈裟な表現なのか、どうかは
次回、僕が霊視や個人セッションを通して学んできた
具体例をあげながら詳しくご紹介しましょうね。

とにかく何事も、
覚悟を決めて取り組む姿勢が大切ですよピース


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Posted by 山野本 竜規 at 06:49│Comments(0)スピリチュアル&神社
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