2008年08月30日
父を叱る。
撮影したハートマークの花壇です。
心の中に、このハートの花壇のような愛情が、
しっかりあれば、たとえ厳しい態度で
相手の悪いところを正して、
相手がショックを受けたとしても、
必ず、いつかは、その真意が
伝わるものだと思っています。
「叱る」と「怒る」の違いは、
前者は、(特に目下の人に対して)
相手の悪い部分、よくない部分をとがめること。
後者は、
(感情に任せて)自分の不満などを表すこと。
ですから、「叱る」という行為は、
色々な感情を冷静に抑えながら、
淡々と相手に伝えなければいけない
難しい行為ですし、
何より、相手に対する
真の思い遣りや愛情がないと出来ない、
とてもエネルギーの要ることです。
昨日、1泊2日の
長崎旅行から帰ってきたその足で、
父が入院している病院に直行し、
少し調子が悪そうにしている父に対し、
1対1で、日頃の行いの悪さを
徹底的に叱ってきました。
「叱る」のは、肉体年齢は
全く、関係ありません。
たとえ、年上であろうが、
年下であろうが、
人として間違った行為をして
周囲に迷惑をかけるようであれば、
真の愛情を以って、
しっかり、その心根を正す必要があります。
神社神職としての役目を果たしていない
職務怠慢のこと、
神社以外の会社経営に熱中して
他のことをおろそかにしていること、
お金のルーズさについてのこと、
真の組織のトップになる器を
身につける努力をしていないこと等・・・。
とにかく、
周囲のスタッフや家族が
なかなか言い出せない核心の部分を
淡々と約1時間半、
入院している父に向って伝え、
強い意志を持って、叱りました。
父も、ある程度、覚悟していたのか
ほとんど反論することもせず、
ただ下を向いて、両手をモゾモゾさせて
僕の話を聞くしかなく、
まるで、
親に叱られている子供のような表情です。
普段の組織のトップとしての
父の威厳は、どこへやら・・・。
そして、そんな姿や表情は、
周囲のスタッフには
絶対に見せられない姿です。
父は、実母、
つまり僕のおばあちゃんにあたる人を
20歳の時に亡くしています。
本当だったら、色々甘えたり
社会人としてのルールや、
人としてのマナーを
もっと、もっと、
おばあちゃんから学びたかったはず。
そんな寂しい思いを抱えて
懸命に生きてきたことも理解していますが
謙虚な人だったら、
そういった寂しさ、辛さをバネにして
これまで出会ってきた
色々な人たちから、
人に対する真の愛情だったり
人としての道理を教わるのですが、
父には、
その「謙虚さ」というものが足りなかったために
人生の失敗を繰り返し、
その度に周囲の人に迷惑をかけてきました。
父は、
もともと、頭脳明晰で商才があり、
未開拓の道を切り開いていく
パワーがある人なので
現在は、神社神職の他にも、
会社を経営しながら
組織のトップとして多くのスタッフを抱える立場ですが
やっぱり、
金銭感覚のルーズさや、
人に対する謙虚さ、感謝の気持ちが
著しく欠けているところがあります。
もし、今度、同じような失敗をすれば、
組織の規模が規模だけに、
神社のスタッフだけでなく、
経営している他の会社の
数多くのスタッフたちの人生を
迷わせてしまうことになるので
心を鬼にして、
全身全霊で苦言を呈して
父の心癖を修正する
相手がいないといけません。
その役目が、僕なのです。
愛する家族に向って、
しかも、病気で苦しんでいる姿を
目の当たりにしながら
人生で最大級の叱責をするのは、
本当に辛いものです。
出来れば、今すぐにでも、
「体は大丈夫?」とか「大変だろうね。」などの
優しい言葉をかけて
体をマッサージしてあげたい気持ちなのですが、
そのような気持ちは全部、
心の奥底に押さえ込んで
一切、笑顔は見せず、
淡々と、これまでの悪行の数々を指摘し、
どうすれば修正できるのか
厳しい言葉で伝えました。
病気で心が弱っている上に、
一番怖い存在である僕から
色々なことを叱責されたのですから、
そのショックは相当なものでしょう。
僕も、全てのことを叱り終えて
その場を立ち去り、病院を出るとき、
涙が溢れて止まりませんでした。
「これが、親が子供を
真の愛情で叱る時の心境なんだろうな・・・。」
そう感じながらも、
やっぱり、愛する人を「叱る」という行為は
とても辛くて、悲しいものだということを
心の奥底で実感しました。
でも、そうしたことで、
悔いは全くありません。
僕が出来る、
最大限の愛情表現を
心を込めて行ったことなのですから・・・。
あとは、父の人間力次第。
病気と一緒に、心の悪い癖も
少しずつ改善されていくことを
心から願っています。
今、周囲を見渡すと、
家庭の子育てや、学校の教育現場、
職場の後輩、部下の教育に対しても
同じようなことが言えますが、
この「叱る」という行為を
必要以上に恐れていたり、
面倒に感じている
事なかれ主義の大人が
増えているような気がします。
誰だって、
人との衝突は避けて通りたいものですし、
出来れば、当たり障りのない
人生を送りたい・・・と感じるものです。
だけど、それだったら、
この世を生きている意味がありません。
何故なら、
人は、他の人と接する中で
色々な出来事を通して
悩んだり、傷付いたり、傷つけたり、
思い遣ったり、思い遣られたりしながら
魂を切磋琢磨するために
自ら望んで、この世に生まれてきたからです。
それを、
「怖いから。」「面倒だから。」「勇気がないから。」で
何もしないでいるのは、
自らの魂が望んできたのとは正反対、
自分を裏切る行為と同じです。
いつも、いつも衝突するのは
やっぱり変ですが、
時には、真の愛情を以って
夫婦、親子、兄弟のような家族、
恋人、親友、同僚のような仲間に対して
間違った行為をしたら
厳しく「叱る」、または「叱られる」ような
良好な人間関係を築いて
おかなければなりません。
あなたには、「叱る」勇気、ありますか?
「叱られる」心の準備、出来ていますか?
昔の人だったら、
当たり前のように出来ていた
この「叱る」「叱られる」という行為、
これも、
立派な愛情表現だということを
しっかりご理解頂ければ幸いです。
*注*
このブログのメッセージ欄を通して、または会社の電話を通しての
霊視や個人セッション、勉強会の申し込み、質問、要望等は
一切受け付けておりませんので、どうぞ、ご了承下さい。
*「叱る」「マナー」に関する、過去の参考記事。
組織のトップに立つ人へ。
ブス論、カムバック。
ブログ論。
言霊(ことだま)。
前者は、(特に目下の人に対して)
相手の悪い部分、よくない部分をとがめること。
後者は、
(感情に任せて)自分の不満などを表すこと。
ですから、「叱る」という行為は、
色々な感情を冷静に抑えながら、
淡々と相手に伝えなければいけない
難しい行為ですし、
何より、相手に対する
真の思い遣りや愛情がないと出来ない、
とてもエネルギーの要ることです。
昨日、1泊2日の
長崎旅行から帰ってきたその足で、
父が入院している病院に直行し、
少し調子が悪そうにしている父に対し、
1対1で、日頃の行いの悪さを
徹底的に叱ってきました。
「叱る」のは、肉体年齢は
全く、関係ありません。
たとえ、年上であろうが、
年下であろうが、
人として間違った行為をして
周囲に迷惑をかけるようであれば、
真の愛情を以って、
しっかり、その心根を正す必要があります。
神社神職としての役目を果たしていない
職務怠慢のこと、
神社以外の会社経営に熱中して
他のことをおろそかにしていること、
お金のルーズさについてのこと、
真の組織のトップになる器を
身につける努力をしていないこと等・・・。
とにかく、
周囲のスタッフや家族が
なかなか言い出せない核心の部分を
淡々と約1時間半、
入院している父に向って伝え、
強い意志を持って、叱りました。
父も、ある程度、覚悟していたのか
ほとんど反論することもせず、
ただ下を向いて、両手をモゾモゾさせて
僕の話を聞くしかなく、
まるで、
親に叱られている子供のような表情です。
普段の組織のトップとしての
父の威厳は、どこへやら・・・。
そして、そんな姿や表情は、
周囲のスタッフには
絶対に見せられない姿です。
父は、実母、
つまり僕のおばあちゃんにあたる人を
20歳の時に亡くしています。
本当だったら、色々甘えたり
社会人としてのルールや、
人としてのマナーを
もっと、もっと、
おばあちゃんから学びたかったはず。
そんな寂しい思いを抱えて
懸命に生きてきたことも理解していますが
謙虚な人だったら、
そういった寂しさ、辛さをバネにして
これまで出会ってきた
色々な人たちから、
人に対する真の愛情だったり
人としての道理を教わるのですが、
父には、
その「謙虚さ」というものが足りなかったために
人生の失敗を繰り返し、
その度に周囲の人に迷惑をかけてきました。
父は、
もともと、頭脳明晰で商才があり、
未開拓の道を切り開いていく
パワーがある人なので
現在は、神社神職の他にも、
会社を経営しながら
組織のトップとして多くのスタッフを抱える立場ですが
やっぱり、
金銭感覚のルーズさや、
人に対する謙虚さ、感謝の気持ちが
著しく欠けているところがあります。
もし、今度、同じような失敗をすれば、
組織の規模が規模だけに、
神社のスタッフだけでなく、
経営している他の会社の
数多くのスタッフたちの人生を
迷わせてしまうことになるので
心を鬼にして、
全身全霊で苦言を呈して
父の心癖を修正する
相手がいないといけません。
その役目が、僕なのです。
愛する家族に向って、
しかも、病気で苦しんでいる姿を
目の当たりにしながら
人生で最大級の叱責をするのは、
本当に辛いものです。
出来れば、今すぐにでも、
「体は大丈夫?」とか「大変だろうね。」などの
優しい言葉をかけて
体をマッサージしてあげたい気持ちなのですが、
そのような気持ちは全部、
心の奥底に押さえ込んで
一切、笑顔は見せず、
淡々と、これまでの悪行の数々を指摘し、
どうすれば修正できるのか
厳しい言葉で伝えました。
病気で心が弱っている上に、
一番怖い存在である僕から
色々なことを叱責されたのですから、
そのショックは相当なものでしょう。
僕も、全てのことを叱り終えて
その場を立ち去り、病院を出るとき、
涙が溢れて止まりませんでした。
「これが、親が子供を
真の愛情で叱る時の心境なんだろうな・・・。」
そう感じながらも、
やっぱり、愛する人を「叱る」という行為は
とても辛くて、悲しいものだということを
心の奥底で実感しました。
でも、そうしたことで、
悔いは全くありません。
僕が出来る、
最大限の愛情表現を
心を込めて行ったことなのですから・・・。
あとは、父の人間力次第。
病気と一緒に、心の悪い癖も
少しずつ改善されていくことを
心から願っています。
今、周囲を見渡すと、
家庭の子育てや、学校の教育現場、
職場の後輩、部下の教育に対しても
同じようなことが言えますが、
この「叱る」という行為を
必要以上に恐れていたり、
面倒に感じている
事なかれ主義の大人が
増えているような気がします。
誰だって、
人との衝突は避けて通りたいものですし、
出来れば、当たり障りのない
人生を送りたい・・・と感じるものです。
だけど、それだったら、
この世を生きている意味がありません。
何故なら、
人は、他の人と接する中で
色々な出来事を通して
悩んだり、傷付いたり、傷つけたり、
思い遣ったり、思い遣られたりしながら
魂を切磋琢磨するために
自ら望んで、この世に生まれてきたからです。
それを、
「怖いから。」「面倒だから。」「勇気がないから。」で
何もしないでいるのは、
自らの魂が望んできたのとは正反対、
自分を裏切る行為と同じです。
いつも、いつも衝突するのは
やっぱり変ですが、
時には、真の愛情を以って
夫婦、親子、兄弟のような家族、
恋人、親友、同僚のような仲間に対して
間違った行為をしたら
厳しく「叱る」、または「叱られる」ような
良好な人間関係を築いて
おかなければなりません。
あなたには、「叱る」勇気、ありますか?
「叱られる」心の準備、出来ていますか?
昔の人だったら、
当たり前のように出来ていた
この「叱る」「叱られる」という行為、
これも、
立派な愛情表現だということを
しっかりご理解頂ければ幸いです。
*注*
このブログのメッセージ欄を通して、または会社の電話を通しての
霊視や個人セッション、勉強会の申し込み、質問、要望等は
一切受け付けておりませんので、どうぞ、ご了承下さい。
*「叱る」「マナー」に関する、過去の参考記事。
組織のトップに立つ人へ。
ブス論、カムバック。
ブログ論。
言霊(ことだま)。
Posted by 山野本 竜規 at 14:23
│スピリチュアル&神社