RBCアナウンサー山野本竜規の「ナカトリモチ日記」

神社の神職は神と人との間を取り持つ「ナカトリモチ」。 神職資格を持つRBCアナウンサー山野本竜規が、仕事の 裏側からプライベートまで日々の出来事を皆さんにお届けします。
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2008年08月04日

お葬式あれこれ。

お葬式あれこれ。昨日、ゆっくり眠ったお陰か、
ここ数週間の霊視疲れで鉛のように重かった
体が、スッと軽くなり、また元通りふたば
やっぱり、睡眠は、とても大切ですね!

昨日、夕方過ぎに眠ろうとカーテンを閉めるため
窓の外を眺めると、雲がピンク色に染まっていて
しばし見入ってしまいました。

そして、風に乗って、どこからともなく流れてくる
エイサーの太鼓の音。沖縄の夏を感じますね。

沖縄では、この時期になると各地域の子供~大人まで
公民館などに集まって、エイサーの練習をします。

元来、エイサーは、
本土でいうお盆(勿論、旧歴)の送り火(ウークイ)の夜に
現世に戻って来られた、ご先祖様たちをお送りするために
踊られたものですが、
現在では、迎え火(ウンケー)の日から
連日、踊られているようです。

今年は、旧歴のお盆と、新暦のお盆が同じ日なので
8月13日~15日の間、
県内のあちらこちらでエイサー太鼓の音と踊りを
鑑賞することができます。

また、昔よりも華やかに、躍動感溢れる
パフォーマンス的要素の強い踊りの
「創作エイサー」が主流のようで
古き良き伝統を守ってきた人たちから言わせれば
「最近のエイサーは、本当のエイサーではない!」と
気分を害する方もいらっしゃるようです。

でも、これは、時代の流れ。

古き良きものを守っていくことも本当に大切ですが、
一番肝心なのは、
その「心」を、しっかり受け継いでいくこと。

ご先祖様に想いを馳せ、
大地の精霊たちに感謝を込めて
真剣に、楽しく踊り、
その踊りを見ている側の心も感動すれば、
たとえ創作エイサーであったとしても、
その目的、お役目は、
しっかり果たしていることになります。

目に見えるものだけにこだわらず、
しっかりと、その中に込められた
「見えない想い」を感じる感性があれば、
「あ~だ!こ~だ!」と
昔の良さだけを強調する
卑屈な心にはならないはずです。

実は、これ、お葬式や、先祖供養にも
そっくり、そのまま
当てはまることなんですよ。

死後の世界については、このブログで
既に記してありますので、関連記事を参考に、
その概要を把握した上で、
このあとの文章をご覧下さい。

(「死後の世界。」  「自分の葬式を考える。」)

今回は、お葬式の意味について
詳しくご紹介しましょう。

お葬式は、故人のためと、残された現世の人たちの
両方のために行われる意味合いが強いと思います。

たとえ生きている間に
霊的世界を全く信じていなかった人でも
亡くなれば、
「自分は、ここにいて、意識もしっかりあるのに、
 なぜ、誰も私に気付いてくれないんだ・・・。」
「なぜ、自分の遺影が飾られて、祭壇に
 自分の体が横たわっているんだ・・・。」
「私は、ここにいるのに!!! おいっ、誰か気付いてくれ!」と
最初はパニックに陥る故人もいらっしゃいますが、
そのうち、徐々に状況を把握するようになります。

お通夜、本葬、出棺と
自分の葬式が進むにつれて
「もしかして、私は、死んでしまったのか。
 でも、意識はある。肉体がないだけ。
 肉体が亡くなっても、魂は生き続けているんだな。」と
ようやく、肉体の死を自覚するようになります。

よほどの未練や執着がない限り、
おおよその方が、自分の葬式で
肉体の死を自覚するので
お葬式というのは、
故人に肉体の死を自覚させ
この世とお別れする、
心の準備を促す意味合いがあります。

肉体がなくなり、魂だけの存在になると、
誰もが霊能者など比べものにならないほどの
霊的感性だけの存在になるので
葬式に集まった人たちの想い、会話は
全て心で、テレパシーとして伝わっているんですよ。

だから、良い想いも、悪い想いも、
そして、財産相続の話も、故人の良い話も、悪口も、
全部、本人は、聞いています。

もし、故人と仲が悪くて、体裁だけの付き合いで
お葬式に参列されるのであれば、
それは、本当に意味のないことですし、
故人も「なんで、お前が来るんだ?」と
怒っていることも多いので
無理して参列する必要はありません。

ただ、生前、故人と仲が悪くて
どうしても、そのことを謝りたい・・・という
気持ちがあるのであれば
それは、その謝罪の気持ちを素直に受け取るでしょう。

皆さん、よく故人のことを偲ぶとき、
「あの人は、本当に良い人だった。」と
亡くなったら突然、
完全無欠の善人かのように
お話をされる方が多いのですが、
これも、間違いです。

だって、本人は、肉体が亡くなっただけで
魂は生きているんですよ。

その会話も、全て聞いています。

「面倒見は良かったけど、お金にルーズだったよね。」
「几帳面で真面目だったけど、怒りっぽかったよね。」
「痩せる、痩せるって、必死にダイエットやっていたけど
 結局、痩せなかったよね・・・。」など
故人にまつわる昔話を、
時には真面目に、時には楽しくすることによって
本人も、「ああ、そうか、そういえば、そういう人生だったな。」と
次の浄化をするための材料にして
次、生まれ変わる時に、何が足りなかったのか
のちのち考えて、
魂の再生を志すキッカケになります。

だから、葬式は、
嘆き悲しむだけのものではありません。

時々、遺族とは無関係の、
全く血の繋がりも、ご縁もさほどないような方が
「この世の終わり」と言わんばかりの勢いで
泣き崩れる姿を見かけますが、
これっ、ハッキリ言って、
自己陶酔しやすい感情移入型の人か、
自分のことしか考えられない
幼い魂の人の場合が多いと思うのです。

勿論、本人にそのような意識はありませんが、
周囲の人たちからしてみれば、
とても迷惑ですよね。

全てのケースとは言えませんが、
一番、悲しみ、辛いのは、
葬式に来られた方に、
気丈に振舞って頭を下げている
血の繋がった家族や、親友たちなんです。

一番、泣き崩れたいはずの遺族が
一番、気丈に振舞って
周囲に頭を下げなければいけない
この世の習慣も、
僕は、なんだか、とても滑稽に思えます。

だから、せめて、その習慣が変えられないのであれば、
参列する側の僕たちが、
あまり取り乱して嘆き悲しみ過ぎないこと。

一番、辛いのは遺族だ・・・ということが
心から分かっていれば、
絶対にそんなこと、しないはずなんです。

そんなに泣きわめきたいのであれば、
自宅に戻って、周囲の人がいないところで
1人で泣けばいいだけのことなのですから。

僕が色々な方の葬式に参列して
感じたことは、
おおよその故人というのは、
会場では、遺族と一緒に
目立たない隅に立って
参列者に深々と頭を下げている方が多いということです。

これは、人それぞれの性格によりますが、
それだけ日本人というのは
礼儀正しく、奥ゆかしい方が多いのでしょうね。

実際、僕の姉の旦那さんのお母さんが亡くなられた時、
同じように、遺族と一緒に深々と頭を下げて
参列者に挨拶していました。

しかも、喪服ではなく、ピンクの洋服を着て・・・。

生前、とても面倒見の良い人で
気が利く人だったので
会場に着いて、葬儀が始まる前に
僕と母と弟が
関係者席の一番後ろに座っていたら
「そんな、遠慮しないで後ろに座らずに、もっと前の席に来て!」と
僕に話かけてきました。

母と弟は、その状況が分からないので
「今、むこうのお母さんが、
 遠慮せずに前の席に座れっ!って
 わざわざ祭壇のほうから、こっちに言いに来たよ。」と
2人に伝えました。

すると、30秒後くらいに
葬儀会社のスタッフの方が、
僕たちに話しかけてきて
「あの、関係者の方でしたら、どうぞ、前の席へお座り下さい!」と
誘導するでは、ありませんか!

こうやって、面倒見の良い、姉の旦那さんのお母さんは、
葬式の間中、せわしなく、色々な方の接待をしていました。

それを、姉や旦那さんに伝えると、
「お母さん、亡くなっても、そのままだね・・・。」と
笑顔で涙を流し、葬式を終えたのを覚えています。

葬式中、
あまりにも働き過ぎのお母さんだったので
僕が
「せっかく、お母さんの葬式なんだから、何か望みはないんですか?」と聞くと
とても恥ずかしそうに、
「菊の花より、ピンクのカーネーションやバラの花を飾って欲しい。」と
もじもじしながら言っていたので、
それを伝えて、葬式の会場、
とても華やかなピンクと黄色、赤など
色とりどりの花に囲まれた穏やかな
お葬式になりました。

あとから聞くと、お母さんは、
ピンクの色がとても大好きだったんです。

「だから、喪服ではなく、ピンクの洋服着てたのか・・・。」と
あとから家族、みんなで笑いました。

葬式は、菊の花でなくとも、
生前、故人が好んだ花の種類や色を飾るのも
いいかも知れませんね。

・・・このように、人は、亡くなったあと、
すぐに善人になるわけでも、神様になるわけでも、
はたまた悪霊になるわけでもありません。

生前の性格、言動と全く同じなんです。

だから、お葬式では、お別れの意味を込めて
生前と同じように接して、同じように諫め、
同じように気持ちを込めて
「あの世でも、しっかり頑張って下さいね!」と
お伝えすることが、
何よりの故人の魂の浄化につながります。

しかも、上辺だけの言葉、想いなんて、
全て見抜かれていますから、
本当にそう思っているのであれば、
生きている僕たちが、
しっかりと自分の人生を歩き、
自立した生活を送る姿を見せることで
故人も安心し、早く浄化ができるものです。

あと、感受性の強い方は
お葬式に参列すると気分が悪くなる方がいます。

中には、それを
「自分は霊感がある。」と言わんばかりに
どこか自慢げに話すバカ者もいますが
そういう人の話を聞いたとしても、
スルーしておきましょう。

これは、霊的な影響というよりも、
その場に居合わせた
生きている人間の「悲しみ」の想念を
受け取っているだけなので
別に恐れることも、忌み嫌うことでもありません。

葬式に参列して、不幸になることも、
他の誰かの死を呼び寄せるようなことも、
全くありませんから、ご心配なく。

それこそ、目に見える世界だけに囚われた
間違った発想そのもの。

それでも気になるのであれば
お葬式の時に頂く粗塩を振りかけて
お清めされれば良いのではないか・・・と。

天然塩には、浄化の作用がありますから。

今日は、お葬式の
あれこれについて書きました。

少なくとも、形式や習慣にとらわれず、
ただ、粛々と故人の魂の浄化を祈り、
生前の喜怒哀楽のエピソードを思い出し、
「これで、(この世では)お別れです。」と
お伝えするだけで、
お葬式に参列する意義も、目的も果たせています。

次回は、先祖供養の心の在り方について
ご紹介させて頂きますね。


*注*
 このブログのメッセージ欄を通して、または会社の電話を通しての
 霊視や個人セッション、勉強会の申し込み、質問、要望等は
 一切受け付けておりませんので、どうぞ、ご了承下さい。




*「魂の浄化」に関する過去の参考記事

鎮魂の心構え。

水子なんて呼ばないで。

時の流れが、教えてくれる。

迷うのは当たり前。

「運」って、何?


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Posted by 山野本 竜規 at 13:38 │スピリチュアル&神社