2007年09月21日
霊能者になったキッカケ。
他人様の悩み事や人生の相談事を
本格的にさせて頂くようになったのは、
今から約3年前の伊勢時代から。
そして沖縄という土地に呼ばれてからは
「待ってました!」とばかりに
あっという間にその噂が広がってしまい
毎日、色々な方の霊視をさせて頂くようになり
現在に至っています。
勿論、どういう訳か、子供の頃から
人から色々な相談をされることがよくあって
伊勢で神職資格を取得をする以前の
社会人生活に至るまで
僕にとっては、その延長線上でしかなかったのですが
それまでと伊勢時代からの相談で決定的に違うのは、
「霊視」という霊的世界からの力をお借りして
見えない人間の内面の部分を読み取っていく・・・という作業が加わった点です。
これは、別に神職資格を取得したから、そうなった訳でもないし
何か特別な修業をして得られた力でもなく
もともと僕の家系や家族に
そういった体質の人が多かっただけ。
そして子供の頃から僕に備わっていた
霊媒体質を理解して、受け止めて、
「その体質を人の役に立てていこう・・・」と自然に思えるようになった時期が
伊勢時代と重なっただけのことです。
全ては、本人の自発的な想いとタイミング次第。
「霊媒体質を嫌がることなく、ありのままの自分を受け止めて、
できるだけ隠すことなく、堂々と生きる。
そして霊視という力を使えば、もっと深く人の心を理解できる
キッカケになっていくんだよ・・・。」
穏やかで荘厳な伊勢の森で生活していく中で
僕はそういった見えない世界からの大切なメッセージを
自然と受け取って、
霊能者としての活動を始めることになったんです。
ちなみに、今、僕の父も、そして2人の姉も
伝え方や表現方法、それぞれの能力の分野の違いこそあれ
同じような霊能者としての役割を通して
人の役に立つ努力をしながら、日々精進しています。
でも、僕は、家族から「こういった方法でやるんだよ」という
霊視の方法や技術、霊的世界の知識のことなどは
一切教えてもらっていないし、
父や姉たちも、それぞれの人生経験を通して
それぞれのタイミングで
自分の体質や役目を受け止めて、現在に至っているので
本当に不思議。
こんな風に書いていると、
霊媒体質を持って生まれた人だけが
特別なように受け取ってしまう見識の狭い人もいるようですが
僕は決して、そんなこと微塵にも思っていません。
夫や子供たち、周囲の家族が霊媒体質である中で
ごくごく普通の主婦である僕の母は
本当に立派な人。
僕たちのような体質の人間を
理解しようにもできない、もどかしさもあったでしょうし
人には言えない苦労も沢山あったかと思いますが
それでも明るく、家族の太陽のような存在であるかのように
しっかりと前を向いて生きています。
霊能者であろうが、なかろうが
人として悩みながら、立ち止まりながらも
少しでも立派な生き方をしているか、していないか・・・。
その点では、
何ら他の人たちとの変わりなんてないんです。
そして僕は個人的に、
「霊能者」という言葉が好きではありません。
だから、敢えて
「ナカトリモチ」という表現を使っているのかも知れませんが・・・。
何故なら、やっぱり、どうしても世の中には
胡散臭い霊能者が多いせいか、一緒にされたくない・・・と思うのと
自分が逆の立場だったら、
「霊能者」と名乗る人たちだけと交流を持って
神だの仏だの、スピリチュアルだの、
現実生活から遠くかけ離れた会話のみで生活するなんて
息が詰まるし、生きている心地がしないと思います。
だから、精神世界マニアと呼ばれる人は、大のニガテです。
全ての人とは言いませんが
なんだか、普段の生活を直視できずに
現実逃避している人が多いような気がするし、
本当のスピリチュアリズムは、
そういった苦難を乗り越えるためのヒントとして
霊的世界を理解して、現実の生活に活かすものだと思っているから。
他愛もないアホ話で盛り上がったり
バカなことをやってゲラゲラ笑ったりすることも大切。
人を傷つけたり、傷つけられたり・・・という失敗も大切。
そして人生の様々な出来事で泣いたり、苦しんだり、喜んだりしながら
いざという時に、見えない世界のことも理解しつつ
そのメッセージを真摯に受け止めて生きていくのが
本当の意味で「生きる」ということなのではないでしょうか。
あと、よく間違われやすいのが
「霊感がある人」と「霊能者」を
一緒くたにして考える人が結構いること。
前者と後者では、誤解を招く表現かも知れませんが
敢えて言うなれば
「幼稚園児や小学生の朗読会」と
「プロのアナウンサーの朗読会」の技術ほどの違いがあります。
どういうことかと言うと、
世に多い「霊感がある人」というのは、
いつでも「何かが見える」「聞こえる」と言うばかり。
もちろん、何かを感じ取っているのは確かだし、
見えないものが見えているのも本当でしょう。
だけど、その見えているものが、どういう意味を持つのか、
何のために見えているのか、そして何を訴えかけているのか・・・など
その本質を見抜く
心の強さや心の眼、人格、経験、知識などが備わっていない状態です。
僕も子供の頃は、まさにこれでした。
見えない何かに怯え、怖がり、体調を崩すのみで
自分からは何もできないで、ただじっと耐えているだけ。
でも、そこから本人が強くならなければ
何も状況は変わりません。
きっと変人扱いされるか、心の病として片付けられるだけです。
僕は、幸いなことに
その後、伊勢時代に至るまでの間
家の借金による生活苦や、色々な厳しい人間関係の中で
自分を鍛えざるを得ない環境で生活することが多く、
その逆に人の優しさや、
有難さを実感する経験も沢山させてもらえたお陰で
心が強くなったと思います。
よく「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と言われますが
今になって実感するのは、
その言葉が本当だった・・・ということ。
全ての経験に無駄はなく、その苦しかった経験の全てが
僕の人格を高めてくれたことは事実です。
勿論、人の人生は、
この世に生まれてから亡くなるまで一生懸けての勉強ですし
未熟な部分は多々あるかと思いますが
人間としての人格を高めなければ
たとえ霊感があろうと、霊能者であろうと
その人格(霊格とも呼ぶ)と同じものしか感応できないようになっています。
まっ、「類は友を呼ぶ」という表現が正しいでしょうか。
全ての人は、
自分の人格(霊格)と同等か、それ以下のものにしか感応できない・・・
この事実を知れば、
誰もが、様々な経験を通して
自分の人格を高める努力をしなければいけない・・・という意味が
理解できるはずです。
僕だって、そう。
怒りっぽい短気な部分はあるし、
大勢の人の輪の中に入っていけない弱さもあるし、
時には言葉足らずで、人を傷つけてしまうことだってあります。
他人様の人生をサポートする立場の霊能者なら
更に、そのことに気をつけなければなりません。
霊格を高めることで、
見える世界も少しずつ変わっていくものですから・・・。
だから、皆さんが万が一、霊能者に相談する機会があった場合、
その人が信用できるか、どうかの判断基準のひとつとして
まず、人間的に魅力的か、
または安心感や穏やかさ、優しさを持っている雰囲気の人かどうか・・・。
ここを見て頂ければ、
おのずと、その霊能者がホンモノかニセモノか理解して頂けるかと思います。
もちろん、そういった外的要因だけが全てではありませんが、
人って、その人の生き方や心持ちが、
顔や雰囲気、表情、言葉などに現れますよね。
そして、次に、本人にとって都合が悪いと思われることでも
敢えて指摘して、その解決のヒントを与えられる人かどうか・・・。
「あなたには、○○が憑いている、だから供養が必要」とか
「これを買えば・・・、お祓いをすれば・・・・」とか
「先祖供養が必要」など
何かと供養とか、お金に結びつけてくるような
脅迫めいた言葉を発する人も
その時点で、霊能者として、
いやっ、人として三流の醜い心の持ち主だと思って間違いありません。
こういった現状が未だに尾を引いているのは残念でなりませんが、
日本も、これからは、
霊能者が胡散臭いだけのある種、特別な存在から
普通の人に多く受け入れられる存在になるよう
尽力されている方も大勢いらっしゃいます。
僕も、その一人になれるよう、これからも
少しずつでも
皆さんに霊的世界のお話をご紹介していこうと思っています。
人から色々な相談をされることがよくあって
伊勢で神職資格を取得をする以前の
社会人生活に至るまで
僕にとっては、その延長線上でしかなかったのですが
それまでと伊勢時代からの相談で決定的に違うのは、
「霊視」という霊的世界からの力をお借りして
見えない人間の内面の部分を読み取っていく・・・という作業が加わった点です。
これは、別に神職資格を取得したから、そうなった訳でもないし
何か特別な修業をして得られた力でもなく
もともと僕の家系や家族に
そういった体質の人が多かっただけ。
そして子供の頃から僕に備わっていた
霊媒体質を理解して、受け止めて、
「その体質を人の役に立てていこう・・・」と自然に思えるようになった時期が
伊勢時代と重なっただけのことです。
全ては、本人の自発的な想いとタイミング次第。
「霊媒体質を嫌がることなく、ありのままの自分を受け止めて、
できるだけ隠すことなく、堂々と生きる。
そして霊視という力を使えば、もっと深く人の心を理解できる
キッカケになっていくんだよ・・・。」
穏やかで荘厳な伊勢の森で生活していく中で
僕はそういった見えない世界からの大切なメッセージを
自然と受け取って、
霊能者としての活動を始めることになったんです。
ちなみに、今、僕の父も、そして2人の姉も
伝え方や表現方法、それぞれの能力の分野の違いこそあれ
同じような霊能者としての役割を通して
人の役に立つ努力をしながら、日々精進しています。
でも、僕は、家族から「こういった方法でやるんだよ」という
霊視の方法や技術、霊的世界の知識のことなどは
一切教えてもらっていないし、
父や姉たちも、それぞれの人生経験を通して
それぞれのタイミングで
自分の体質や役目を受け止めて、現在に至っているので
本当に不思議。
こんな風に書いていると、
霊媒体質を持って生まれた人だけが
特別なように受け取ってしまう見識の狭い人もいるようですが
僕は決して、そんなこと微塵にも思っていません。
夫や子供たち、周囲の家族が霊媒体質である中で
ごくごく普通の主婦である僕の母は
本当に立派な人。
僕たちのような体質の人間を
理解しようにもできない、もどかしさもあったでしょうし
人には言えない苦労も沢山あったかと思いますが
それでも明るく、家族の太陽のような存在であるかのように
しっかりと前を向いて生きています。
霊能者であろうが、なかろうが
人として悩みながら、立ち止まりながらも
少しでも立派な生き方をしているか、していないか・・・。
その点では、
何ら他の人たちとの変わりなんてないんです。
そして僕は個人的に、
「霊能者」という言葉が好きではありません。
だから、敢えて
「ナカトリモチ」という表現を使っているのかも知れませんが・・・。
何故なら、やっぱり、どうしても世の中には
胡散臭い霊能者が多いせいか、一緒にされたくない・・・と思うのと
自分が逆の立場だったら、
「霊能者」と名乗る人たちだけと交流を持って
神だの仏だの、スピリチュアルだの、
現実生活から遠くかけ離れた会話のみで生活するなんて
息が詰まるし、生きている心地がしないと思います。
だから、精神世界マニアと呼ばれる人は、大のニガテです。
全ての人とは言いませんが
なんだか、普段の生活を直視できずに
現実逃避している人が多いような気がするし、
本当のスピリチュアリズムは、
そういった苦難を乗り越えるためのヒントとして
霊的世界を理解して、現実の生活に活かすものだと思っているから。
他愛もないアホ話で盛り上がったり
バカなことをやってゲラゲラ笑ったりすることも大切。
人を傷つけたり、傷つけられたり・・・という失敗も大切。
そして人生の様々な出来事で泣いたり、苦しんだり、喜んだりしながら
いざという時に、見えない世界のことも理解しつつ
そのメッセージを真摯に受け止めて生きていくのが
本当の意味で「生きる」ということなのではないでしょうか。
あと、よく間違われやすいのが
「霊感がある人」と「霊能者」を
一緒くたにして考える人が結構いること。
前者と後者では、誤解を招く表現かも知れませんが
敢えて言うなれば
「幼稚園児や小学生の朗読会」と
「プロのアナウンサーの朗読会」の技術ほどの違いがあります。
どういうことかと言うと、
世に多い「霊感がある人」というのは、
いつでも「何かが見える」「聞こえる」と言うばかり。
もちろん、何かを感じ取っているのは確かだし、
見えないものが見えているのも本当でしょう。
だけど、その見えているものが、どういう意味を持つのか、
何のために見えているのか、そして何を訴えかけているのか・・・など
その本質を見抜く
心の強さや心の眼、人格、経験、知識などが備わっていない状態です。
僕も子供の頃は、まさにこれでした。
見えない何かに怯え、怖がり、体調を崩すのみで
自分からは何もできないで、ただじっと耐えているだけ。
でも、そこから本人が強くならなければ
何も状況は変わりません。
きっと変人扱いされるか、心の病として片付けられるだけです。
僕は、幸いなことに
その後、伊勢時代に至るまでの間
家の借金による生活苦や、色々な厳しい人間関係の中で
自分を鍛えざるを得ない環境で生活することが多く、
その逆に人の優しさや、
有難さを実感する経験も沢山させてもらえたお陰で
心が強くなったと思います。
よく「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と言われますが
今になって実感するのは、
その言葉が本当だった・・・ということ。
全ての経験に無駄はなく、その苦しかった経験の全てが
僕の人格を高めてくれたことは事実です。
勿論、人の人生は、
この世に生まれてから亡くなるまで一生懸けての勉強ですし
未熟な部分は多々あるかと思いますが
人間としての人格を高めなければ
たとえ霊感があろうと、霊能者であろうと
その人格(霊格とも呼ぶ)と同じものしか感応できないようになっています。
まっ、「類は友を呼ぶ」という表現が正しいでしょうか。
全ての人は、
自分の人格(霊格)と同等か、それ以下のものにしか感応できない・・・
この事実を知れば、
誰もが、様々な経験を通して
自分の人格を高める努力をしなければいけない・・・という意味が
理解できるはずです。
僕だって、そう。
怒りっぽい短気な部分はあるし、
大勢の人の輪の中に入っていけない弱さもあるし、
時には言葉足らずで、人を傷つけてしまうことだってあります。
他人様の人生をサポートする立場の霊能者なら
更に、そのことに気をつけなければなりません。
霊格を高めることで、
見える世界も少しずつ変わっていくものですから・・・。
だから、皆さんが万が一、霊能者に相談する機会があった場合、
その人が信用できるか、どうかの判断基準のひとつとして
まず、人間的に魅力的か、
または安心感や穏やかさ、優しさを持っている雰囲気の人かどうか・・・。
ここを見て頂ければ、
おのずと、その霊能者がホンモノかニセモノか理解して頂けるかと思います。
もちろん、そういった外的要因だけが全てではありませんが、
人って、その人の生き方や心持ちが、
顔や雰囲気、表情、言葉などに現れますよね。
そして、次に、本人にとって都合が悪いと思われることでも
敢えて指摘して、その解決のヒントを与えられる人かどうか・・・。
「あなたには、○○が憑いている、だから供養が必要」とか
「これを買えば・・・、お祓いをすれば・・・・」とか
「先祖供養が必要」など
何かと供養とか、お金に結びつけてくるような
脅迫めいた言葉を発する人も
その時点で、霊能者として、
いやっ、人として三流の醜い心の持ち主だと思って間違いありません。
こういった現状が未だに尾を引いているのは残念でなりませんが、
日本も、これからは、
霊能者が胡散臭いだけのある種、特別な存在から
普通の人に多く受け入れられる存在になるよう
尽力されている方も大勢いらっしゃいます。
僕も、その一人になれるよう、これからも
少しずつでも
皆さんに霊的世界のお話をご紹介していこうと思っています。
Posted by 山野本 竜規 at 08:33│Comments(0)
│スピリチュアル&神社
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